HIMAWARIの設立は1998年7月。太陽に向かってたくましく成長する夏を代表する花の名前が、クラブ名の由来だ。学生時代にバレーボールに打ち込んだ代表の栗原寿江(くりはらとしえ)さんが、座ってプレーするシッティングバレーボールの特集をテレビで観て関心を持ち、「第1回シッティングバレーボール親善交流大会in白馬」に参加するためにチームを結成したことが始まりだ。3人の創設メンバーは全員健常者だったが、障害の有無に関係なく、ともにスポーツ活動を楽しめるクラブにすることを目指してきた。
以前は障害がある人が放課後や余暇にスポーツに取り組む場所が少ないことが課題だったが、都立特別支援学校活用促進事業の開始によってグラウンドや体育館などが解放されるようになったことで状況が好転。徐々に増えた参加者の要望もあり、ソフトボールやボッチャにも取り組みはじめ、現在は競技環境が限られるデフ陸上や車いすラグビーの選手の自主トレーニングのサポートなども行っている。
現在の登録者の年齢層は中学生から70歳代までと幅広く、ビジター参加できることも特徴だ。「元気に楽しく、ルールを守って、パラスポーツをする」というスローガンのとおり、「参加者たちは自分がやりたい活動に自由に取り組み、それぞれの目標に向かって頑張っています」と栗原さんは語る。
地域の小学校でパラスポーツ教室を開き、子どもたちに共生社会の重要性を伝える活動にも取り組む。東京2020パラリンピック競技大会の開催を機に、「パラリンピック」や「パラ」という言葉が子どもたちにも浸透し始めているといい、栗原さんは「次のステップとして、子どもたちだけでなく先生方にもアスリートやHIMAWARIの仲間たちがパラスポーツに取り組んでいるその背景を知ってほしい」と話し、ノーマライゼーションの理解向上に期待を込める。
取材した12月22日は、2024年の活動最終日。午前は都立羽村特別支援学校のグラウンドでソフトボール、午後は場所を変えて都立青峰学園の体育館でボッチャの活動を行った。
午前のソフトボールは、ボランティアや保護者らを含めて18人が参加。9時前に集合し、グラウンドでランニングやラジオ体操、キャッチボールで身体を温めたのち、守備練習とフリーバッティングに取り組んだ。その後は2チームに分かれ、紅白戦を実施。際どいコースに飛んだ打球を素早くキャッチして走者をアウトにするファインプレーや、ランニングホームランが飛び出すなど白熱した展開になるなか、両チームの選手とも声を出して仲間を鼓舞し、試合を最後まで盛り上げた。
試合後、チームのキャプテンを務める伊藤卓(いとうすぐる)選手は「久しぶりに試合ができて楽しかった」、副キャプテンの永野辰也(ながのたつや)選手も「全力を出して戦えた。また参加したい」と、それぞれ笑顔で振り返ってくれた。
午後のボッチャは、ボランティアを含めて10人が参加した。コートにラインテープを貼って準備を終えると、2つのコートに分かれて2エンド制の個人戦を行った。1ミリを争う真剣勝負が繰り広げられ、僅差となったエンドでは審判がメジャーやコンパス(キャリパー)を使用してボールの距離を測っていた。試合が終わると、みな笑顔に戻り、「さっきのボールはいいところに行ったね」などと称え合っていた姿が印象に残る。
東京ボッチャ選手権大会で優勝経験がある岩井矢寿子(いわいやすこ)選手は、埼玉県からHIMAWARIの練習に参加しているという。岩井さんは、「地元にチームが少ないというのもあるけれど、HIMAWARIさんは個々の選手のレベルが高く、私も上手くなりたいので通っています。次の東京ボッチャ選手権大会で優勝し、関東大会に出ることが目標」と、力強く語った。
HIMAWARIには複数の活動種目があり、参加する人の目的もそれぞれ異なる。そのなかで大切にしている環境づくりについて、栗原さんはこう語る。「たとえば、知的障害がある人は興味がないことにはそっけない態度をとることがありますが、面白そうだなと思ったことには強い関心を示す傾向があります。そのため、ソフトボールだったら『練習』を『交流会』と表現したり、プロ野球に見立てて『秋季キャンプ』や『春季キャンプ』といった言葉を使うなど工夫をして、やる気を刺激するようにしています。また、ボッチャは健常者でリハビリをしたい人や、健康維持を目的とする人も来るので、誰もが気軽に参加できるようなチームづくりを心掛けています」
結成から27年目を迎えるHIMAWARI。今後の目標は、それぞれの活動種目で指導を任せられる人を増やしていくことだ。「今は私や保護者が指導を兼任している状況です。私が居なくても指導ができて、いずれチームの一人ひとりが自立して活動を継続できるようにしたいですね」と、栗原さんは想いを語る。