パラスポーツインタビュー詳細
藤田 佑平さん(ガイドスキーヤー)
プロフィール
名 前
藤田 佑平(ふじた ゆうへい)
出身地
北海道
所 属
株式会社スポーツフィールド
(注)本記事は2021年12月21日のインタビュー記事であり、その後2022年2月16日、有安諒平(ありやす・りょうへい)選手がクロスカントリースキーの日本代表として、北京2022パラリンピック冬季競技大会へ出場することが正式に決定し、藤田佑平さんが有安選手のガイドスキーヤーを務めることとなりました。
学生時代にはクロスカントリースキーヤーとして活躍し、平昌2018パラリンピック冬季競技大会(以下、平昌大会)では選手の目となるガイドスキーヤーとして出場した藤田佑平さん。ガイドスキーヤーを始めたきっかけやガイドの難しさ、ターニングポイントとなった言葉や2030年までの目標などを伺いました。
クロスカントリースキーとの出会いは?
僕は3人兄弟の末っ子なのですが、両親がスキーをしていて、兄たちもクロスカントリースキーの選手という家庭に生まれたので、4歳くらいからスキーを始めました。
競技を本格的に始めたのはいつですか?
僕はちょっと遅く、中学1年から競技スキーを始めて、中学3年のときには全国大会で準優勝。今思えば、物心ついたときからスキーを始めて、英才教育を受けていたと思います。その後、高校3年生のときにインターハイで優勝したのですが、大学で伸び悩み、卒業を区切りに選手としては一線を引く決意をしました。
大学院からコーチングの道に進まれたそうですね。
中学生の頃からコーチになりたいという夢がありました。僕自身、コーチがほぼいないという状態で、中学から大学時代まで過ごしてきました。同期の選手もほぼいなかったため、自分自身でセルフコーチングをしつつ、ときどき兄たちに指導してもらうという競技生活を送ってきたので、コーチがとても大事ということは感じていました。
選手よりもコーチとして頑張りたいという思いが大きかったのですか?
もちろん、選手として大成できれば良かったと思っています。ただ、選手時代から指導方法を観察したり、この選手はこうすればもっと速くなるのではないかというコーチング的な視点も持ちながら、競技に取り組んできました。
パラクロスカントリースキーとの出会いについて教えてください。
2015年に、現在日本障害者スキー連盟でノルディック副委員長を務めている荒井秀樹(あらい・ひでき)さんと、長濱一年(ながはま・かずとし)チーフコーチから「やってみないか!」という誘いの電話があったことがきっかけです。元々繋がりがあったわけではなく、とても驚きましたが、コーチとして世界を観たいと思っていたこともあり、二つ返事で「ぜひお願いします」と返したことがパラスキーとの出会いです。
いきなりガイドスキーヤーをやるという感じだったのですか?
その夏にニュージーランド遠征に連れていかれたのですが、とりあえず前で先導すればいいからと言われて組んだのが、平昌大会に一緒に出場した高村和人(たかむら・かずと)選手です。ニュージーランドで初めて会って、ガイドを始めました。現地で会うまで一度も話したこともありませんでした(笑)。
実際にガイドスキーヤーを務めてみて、いかがでしたか?
大前提として、自分のペースで走れないということがあり、そのうえで視覚に障害のある方を先導して、背後へ指示を送り続けるのですが、それがとても過酷ということを思い知らされました。
初めてレースに出場した時の印象・感想は?
初めてのレースが20kmの長距離で、そのコースが特殊で、少し外れたら崖という難コース。僕は初心者のガイドだったのですが、組んでいるのが全盲の選手ということもあり、大きなプレッシャーのなかで、必死にゴールを目指しました。
それでも続けようと思われたのはどうしてですか?
いろいろな理由があります。そのなかで一番大きかったのは、「選手として続けたい」と思いながら競技を辞めた自分が、パラクロスカントリースキーという形でスキーを続けることになり、一度引退したからこそ、改めてスキーという競技を楽しく感じることができたことです。また、チームの雰囲気がすごく良く、コーチとしても勉強になる、スキー選手としてもまだまだ強くなれるなと感じ、そこで続けてみたいと思ったことも理由です。ガイドスキーヤーという形にはなりましたが、もう少しやりたいという思いが強くなり、今もまだ続けているという感じです。
2018年には平昌大会に出場しましたが、パラリンピックの印象はいかがでしたか?
オリンピックはよく見ていましたが、まさか自分がパラリンピックに参加できるなんてと思いました。ただ、参加したからには日本代表の一員として、ガイドとしてしっかり成績を残さないといけないというプレッシャーも感じました。ワクワク感が半分、成績を残せるかなという重圧が半分でした。
ともに戦った高村和人選手から学んだことは?
視覚に障害がある方を指導することはすごく難しいことです。高村選手は全盲なので、言葉のみで的確に伝えなければなりません。そのなかでアスリートとして強くなるために、二人でいろいろな議論を重ねて、ぶつかることもたくさんありました。そのときに高村選手から言われた「背景を知らなきゃいけないよ」という言葉は、今も強く胸に響いています。
競技を離れれば、普段は教師として生徒と向き合い続ける高村選手の言葉は、僕のコーチングのマインドを変える、ひとつのターニングポイントだったなと思っています。もっともっと相手を知ろうとしなきゃいけないというのは、コーチとして本当に勉強になったことでした。
ガイドスキーヤーとして競技中に気を付けていることは?
大前提として僕が速くなければいけないので、競技パフォーマンスを落とさないことは心掛けています。現在のパートナーである有安諒平(ありやす・りょうへい)選手の最大値と比べて、僕はできるかぎり上にいなければいけないですし、どんなに体調が悪くても、ガイドができるだけの滑りができないといけません。当たり前ですがトレーニングにも気を付けていますし、現在は体も仕上がっていて、大学の時よりも速いと思っています。
有安諒平選手とはいつからパートナーを組んでいますか?
初めて有安選手にお会いしたのが、2019年の5月頃です。有安選手が本格的に競技をやっていくという話をしてくれた時に、2030年まで目標設定をしました。2030年に開催されるパラリンピック冬季競技大会で「僕たちは絶対にメダルを獲る」ということをベースに考えて、それまでのワンステップとして北京2022パラリンピック冬季競技大会(以下、北京大会)の出場という高い目標を掲げました。
当時は有安選手のタイムも十分ではなかったので、月に1回ずつくらい練習する形でスタートし、僕がちゃんとガイドできる速度感で走ったのは、2020年の4月くらいからだったと思います。
ちょうど新型コロナウイルス感染症の影響が出始めた頃ですよね。どのようにトレーニングをしたのですか?
競技を始めて間もない有安選手でしたが、ボート競技で東京2020パラリンピック競技大会の出場も目指している時期でしたので、クロスカントリースキーのトレーニング時間に制限もありました。今ももちろんそうですが、そこをうまくプランニングしながら、オンライン中心で練習をすることもありました。
有安選手と初めて出場した大会は? 北京大会に向けての現状も教えてください。
新型コロナウイルス感染症の影響もあり、正式にクラス分け認定を受けて出場した大会は、2021年12月に行われたWPNSパラノルディックスキーワールドカップ第1戦のカナダ大会が初めてです。個人で北京大会の出場枠を獲得できる最後の大会でしたが、ぶっつけ本番のような状態になってしまい、出場権獲得は叶わずバイパルタイト招待枠(※)での出場の可能性を残すのみとなりました。この大会を終えて、改めて甘くないということを二人で痛感しているところですが、北京大会に出場するということが達成できなくても終わりではないので、「2030年までにメダルを獲る」という目標に向けて、日々のトレーニングを続けています。
もちろん目標なので変わってくる可能性もあります。途中でケガをすることや、逆に調子がよくてミラノ・コルティナ2026パラリンピック冬季競技大会でメダルを獲るということもあり得ると思います。そういったことも含めて、ある程度の道筋というものを作っているところです。
※バイパルタイト招待枠
各国からパラリンピックへ選手を出場させるべく、国際パラリンピック委員会へ直接推薦し、認定された場合にのみパラリンピックに出場可能となる。
2030年の目標に向けて、改めて思いを聞かせてください。
2030年の札幌市でのオリンピック・パラリンピック誘致計画も公表されました。もし札幌開催が決まれば、有安選手は自国開催の夏季パラリンピックのボート競技に出場、自国開催の冬季パラリンピックにも出場して、メダルを獲得するというストーリーに挑戦することになります。今は目標に向けた歩みを止めることなく、その挑戦を全力で支えながら、一緒に滑り切りたいと思います。
教える立場としては、どのようなコーチを目指していますか?
今のスポーツ界には「勝利至上主義」というか、「勝たなきゃいけない」という考えがあって、そのことが体罰やハラスメントにつながる原因にもなっています。僕はそのことが前々から嫌だと感じていて、オリンピック競技やパラリンピック競技に関係なく、スポーツはそもそも楽しむものだと思っています。大前提にスポーツを楽しもうというマインドがあって、その中で強くなっていければ良いというようなコーチングを目指しています。