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パラスポーツインタビュー詳細

早瀨 久美さん(デフ自転車)

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プロフィール

名 前

早瀨 久美(はやせ くみ)

生年月日

1975年4月25日

出身地

大分県

所 属

昭和大学病院 薬剤部

 デフリンピックに3度出場し、自転車競技で3個のメダルを獲得している早瀨久美選手。先天性のろうで、2001年に聴覚障害者として日本で初めて薬剤師免許を取得し、デフリンピック日本代表選手団ではスポーツファーマシストとして医薬品管理なども担当しています。現在は、昭和大学病院(2025年4月から昭和医科大学病院に名称変更)に勤務しながら、競技を続けています。自転車競技との出会いやデフリンピックの思い出、11月開幕の東京2025デフリンピックの意気込みなどをお聞きしました。

幼少期や学生時代はどんなスポーツに取り組まれていたのですか?

 私は生まれつきろうですが、小学校から高校まで聞こえる子たちと同じ地域の学校に通っていました。身体を動かすことが好きで、小学校の時はバスケットボールやバドミントン、陸上、チアリーディングなどさまざまな部活動に挑戦しましたね。中学校と高校では軟式のテニス部に所属。審判が何か言った時はダブルスパートナーが合図を出してくれるなど、そういうやりとりが自然にできていましたね。薬剤師を目指して明治薬科大学に入学してからは、ろう者の問題解決のための活動を始めたのでスポーツをする時間は少し減りましたが、趣味としてテニスを楽しんでいました。

デフスポーツと自転車競技との出会いを教えてください。

 デフスポーツには、第21回夏季デフリンピック競技大会台北2009で日本代表選手団が使う薬を用意するスポーツファーマシスト(アンチ・ドーピングに関する知識を持つ専門の薬剤師)として関わったことが始まりです。大会には知り合いや、ろう児の学習塾を開く夫(※1)の教え子が選手として出場していたので、夫と応援に行きました。その時は、自分の仕事は裏方として選手をサポートすることであり、自分が競技をしようとは全く考えていませんでした。でも、世界一になるために競技に打ち込む選手たちの笑顔や涙を目にして一気に引き込まれ、デフスポーツの世界に入ってみたい! という気持ちになりました。自転車が好きだった夫が先に本格的に自転車競技を始め、すごく楽しそうにしている姿に影響を受けて、私も2010年に競技用のマウンテンバイクを購入し、取り組み始めました。

※1 早瀨憲太郎(はやせけんたろう)さん……3大会連続デフリンピック出場の自転車競技選手

聞こえないなかで、競技中はどのように情報を得ているのですか?

 視覚からの情報ですね。マウンテンバイク競技(※2)は自然の中を走るので、周回を重ねるごとに路面がえぐれたりしてコース状況が変わっていくので、しっかり目で見て確認することが必要です。ロード競技は基本的にはアスファルトを走ります。でも、ギアの音は聞こえないので、他の選手がどのタイミングでスピードを変えたのか音では分かりません。やはりよく周りを見て位置取りや状況把握をしています。

※2 マウンテンバイク競技の詳細はこちら

選手としては第22回夏季デフリンピック競技大会ソフィア2013(以下、ソフィア大会)に初出場し、マウンテンバイクXCO(クロスカントリー・オリンピック)女子で銅メダルを獲得し、第23回夏季デフリンピック競技大会サムスン2017(以下、サムスン大会)でも銅メダルを獲得しました。それぞれどんなことが印象に残っていますか?

 ソフィア大会は私にとって初めての大舞台。しかも、日本チームが自転車競技に出場すること自体が初めてのことで、右も左もわからないし、とても緊張していましたが、とにかく練習してきたことを出し切るんだ! と言い聞かせていたことを覚えています。次のサムスン大会では日本選手団主将に任命されたのですが、実は大会の数カ月前に練習中の落車で左手を骨折してしまい、出場そのものに大きな不安と迷いがありました。ただ、同じころに全日本ろうあ連盟の企画でレスリングの吉田沙保里(よしださおり)選手と対談する機会があり、やはり主将を務められた2016年のリオでのオリンピックを振り返り、「自分の試合後も主将として各競技会場に足を運んだことで、すごく視野も広がったし、やっとオリンピックが楽しいんだって思うことができた」とおっしゃったんです。その言葉を聞いて、私も他の競技団体とのつながりを作ることを目標のひとつにしようと、前向きになることができました。

そして、前回の第24回夏季デフリンピック競技大会ブラジル2022(以下、ブラジル大会)はコロナ禍により半年の延期を経て開催されました。早瀨選手はマウンテンバイクXCO女子で銀メダルを手にされましたが、日本代表選手団のスポーツファーマシストとしての仕事も大変だったのではないでしょうか。

 薬剤師として重要な仕事だったのが、出発前に選手たちの命を守るために感染対策の物品などを徹底して用意することでした。大会が始まると医師や看護師、トレーナーらが担う仕事のほうが多くなるので、私自身は競技に集中することができました。ただ、日本代表選手団の中でコロナ感染が広まってしまい、自分のレースが終了した翌日から全競技とも大会途中で辞退することになりました。そのため大会後半は、私はメディカルチームの一員として、感染して隔離された選手たちの食事や生活に必要なものを用意して届けるといったサポートをしていました。選手団は大変な状況でしたが、これも今しかできない経験だと前向きに捉えて過ごしていましたね。

ブラジル大会のマウンテンバイクXCO女子では銀メダルを獲得した

デフリンピックでは他国の選手とも交流できましたか?

 私は積極的に各国選手と親睦を深めるようにしています。そうした交流を通して、女性がスポーツをすること自体を好ましくないとする国もあると知り、世界でもっと女性アスリートが活躍できるような活動をしていきたいと思うようになりました。また、サムスン大会の時は、アフリカのザンビア選手は輸送費が高額で自国から持参できず、現地で競技用自転車を借りて出場していたということがありました。競技用自転車は高価なので、自国で練習している自転車も古くボロボロだという状況で、オリンピックではあり得ないことですが、残念ながらこれがデフスポーツの現実です。それを機に、発展途上国の支援の在り方についても考えるようになったのですが、実は去年、外務省の事業を活用して、日本ろう自転車競技協会からそのザンビアの選手に競技用自転車を贈ることができました。時間はかかってしまいましたが、ザンビアのデフ自転車の発展にほんの少しでも力になれたら嬉しいです。

パラリンピックでは早瀨さんと同じ薬剤師で自転車競技の杉浦佳子(すぎうらけいこ)選手が2大会連続で金メダルを獲得しています。杉浦選手の活躍に刺激を受けていることはありますか?

 やはりメンタルがすごく強い選手なので、真似したい、見習いたいなと思っています。杉浦さんとは古くからの知り合いで、彼女が2016年に落車事故で障害を負ったレースに私も一緒に出ていました。事故のあと、高次脳機能障害や麻痺の影響でふらついてしまうのだけれど、聞こえない選手はどうやってバランスをとっているのかと質問されたこともあります。そんな経緯もあり、彼女が自転車競技に復帰することを心から応援していましたし、実は、私は東京2020パラリンピック競技大会でも自転車競技会場でボランティアをしたのですが、ロードレースで1着でゴールをした杉浦さんとハグを交わすことができたんです。あの瞬間は忘れられませんね。

いよいよ今年11月、東京でデフリンピックが開催されます。大会の意気込みと、自転車競技の観戦ポイントがあれば、教えていただけますか。

 海外勢に比べて私は背が低くて身体がとても小さくパワーでは劣ってしまうので、ジムで筋トレに励み、パワーをつけるようにしています。普段の練習メニューもオンとオフのメリハリをつけた内容で、効率的に強化できるようにしています。もし日本代表に選ばれれば、4大会連続の出場となります。今回は培ってきた経験を活かすこと、自分の力をすべて出し切ることが目標です。その結果、良い成績が残せればいいなと思っています。また、今回初めてデフの自転車競技を観る人もいると思います。スタートは旗やランプを用いるなど、視覚的にわかる工夫をして行われますし、選手たちは走りながら互いに視線や手話でコンタクトをとって競技を進めていくのもデフ競技ならではの見どころだと思います。そして、先ほども言ったように、選手はすごく周りをよく見ているので、沿道で応援うちわに「くみ」と書いて振ってもらえれば、きっと目が合うと思います(笑)。

デフリンピックへの想いを語る早瀨選手

最後に、スポーツを始めてみようと思っている方々にメッセージをいただけますか。

 障害や経験、年齢に関係なく、チャレンジをすることを迷わないでほしいですね。まずはやってみないと、自分に合っているかどうかは分かりません。一歩を踏み出して、ぜひ自分の可能性を見つけてほしいです。そこから、新たな目標が見つかるかもしれません。パラスポーツやデフスポーツの体験会は各所で開かれているので、ぜひ一度足を運んでくださいね。

(取材・文/MA SPORTS、撮影/植原義晴)
(手話通訳:田村梢)