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パラスポーツインタビュー詳細

橋本 一郎さん(手話通訳士)

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プロフィール

名 前

橋本 一郎(はしもと いちろう)

生年月日

1972年2月16日

出身地

東京都

所 属

亜細亜大学経営学部特任准教授/障がい学生修学支援室支援コーディネーター

 東京都や横浜市のろう学校や特別支援学校で22年半にわたり教員生活を送った橋本一郎さん。15歳で手話と出会い、教員になるまでにいくつもの転機があり、その時の選択と経験すべてが、大学教員への転身や手話通訳士として活躍する今につながっているといいます。また、手話通訳士として東京2020パラリンピック競技大会のほか、さまざまなパラスポーツの大会やイベントに協力。聞こえない人に伝える手話の工夫や、2025年に東京で開催されるデフリンピックへの想いなどもお聞きしました。

橋本さんと手話との出会いを教えてください。

 高校1年の時に始めた演劇サークルの仲間から、「表現力が上がるし、女の子にもてるよ」と手話サークルを紹介されたのが手話との出会いです。その後、両サークルの練習日が重なってしまったので、地元の世田谷区聴覚障害者協会主催の手話講習会で習い始めました。高校卒業後は就職するつもりで商業高校を選んだのですが、高校2年の時に出場した手話スピーチコンテストで2位になり、その実績を引っ提げて亜細亜大学の一芸一能入試に挑戦したところ、合格。進学することになりました。

手話との出会いについて語る橋本さん

手話を始めたことで世界が広がったのですね。大学生活では、どのようなことが印象に残っていますか?

 半年間の海外留学です。経済的にも学力的にも無理だと諦めていたところ、新設された奨学金制度を利用してオレゴン州立大学で学ぶことができました。僕は寮生活をしながら英語や文化を学び楽しく過ごしていたんですが、3人以上で集まるとアメリカ人同士の会話のスピードについていけず、内容の理解に苦労していました。でも、何度も聞き返せないし、逆に気遣われるのも嫌だから、そのうちに「わかったふり」をするようになってしまって……。そんな時に、ふと思ったんです。「もしかして、聞こえない人たちってずっとこうだったのかな」って。「分かった?」と聞かれて「わからない」と言えないろうの友人たちの気持ちを、自分がマイノリティの経験をしたことで理解できたんです。日本に帰ったら、改めて聞こえない人たちと手話に向き合ってみようと思った経験でした。

ろう教育に携わろうと思ったきっかけは何だったのでしょうか?

 大学4年の時に教員採用試験に落ちてしまい、卒業後は聾学校(当時)の専修免許状が取得できる1年課程の横浜国立大学教育学部特別専攻科に進みました。当時は大学もろう学校も、教育方針は手話を使わない聴覚口話法(※)が主流。僕がろう学校の教育実習に行く際も、手話は使わないよう校長先生に釘を刺されていましたが、僕は生徒に自分の名前をちゃんと知ってほしいから、朝礼で手話を使って自己紹介したんです。そうしたら、生徒たちが「なんで手話ができるの?」と喜んで集まって来て。一方で、自分が聞こえないことを受け止められず、頑なに手話を使わない生徒もいました。そんな彼らと向き合うなかで、聞こえない自分を否定してしまう教育や社会を変えたいと思うようになり、ろう学校の先生になることを決めたんです。

※補聴器を使って残存聴力を活用しながら、相手の唇の形や動きを見て話す内容を理解し、同時に自ら喋ることができるような発生訓練を行う教育方法

ご自身の進むべき道が見えた出来事だったのですね。

 そうですね。実はもうひとつ、卒業間近に起こった阪神淡路大震災(1995年)も転機となりました。僕がボランティアで向かった避難所では、電話はあるけどファクシミリはなく、聞こえない人たちは館内放送にも気づかず、周囲に意志を伝えられずに孤立している状況でした。僕はそこで手話を使って聞こえない人たちと雑談をして、困りごとを聞くくらいしかできなかったのですが、すごく感謝されました。普段のコミュニティと分断された避難所では、いかに他愛ない会話が彼らの励みになり、生きる希望につながるのかを痛感しました。目に見えない障害は、いくら日本人が優しい気持ちを持っていても理解されにくい。手話ができることは自分が生きている価値なんだ、と気づきました。

 東京に戻ると、教育実習先だったろう学校から非常勤で採用したいという話が来ました。僕は神戸の人たちにまた戻ると約束していたので、ろう学校からの申し出を受け入れるかどうか気持ちが揺れ動いたんですが、「ろう学校に受かった」と報告したら、彼らが「君が震災で見たこと、その事実を聞こえない子たちに伝えるのが君の仕事。私たちは大丈夫だから、ろう学校に行きなさい」と言ってくれて。この出来事が後押しになり、教員の道に進みました。

現在は亜細亜大学に所属されています。大学教員への転身はどのようなきっかけだったのでしょうか?

 ろう学校と特別支援学校に22年半務めましたが、母の介護もあって2016年に退職しました。それを知った僕の恩師である亜細亜大学の栗田充治(くりた・みつはる)元学長が「障がい学生支援室を立ち上げるから来ないか」と熱心に誘ってくださり、手話通訳の活動や母の介護等もできることを条件に、お受けすることにしました。現在、大学には聞こえない学生が6人いて、本人が希望すればすべての講義に手話通訳やノートテイク、音声認識アプリの使用と修正等の情報保障をつけることができます。そうしたコーディネートや当事者との相談等をするほか、「手話入門」や「特別支援教育概論」といった講義を行っています。

 東京2020パラリンピック競技大会では開閉会式の手話通訳コーディネーターをされました。どのような想い出がありますか?

 開会式のショーには、総勢700人のパフォーマーが出演しました。そのうち、聞こえないキャストは20人。僕は、リハーサル、本番、バックステージまでの手話通訳を担当する13人のコーディネートをしました。ベテランに加え、僕の大学の教え子や卒業生ら情熱のある若い世代を多く配置しました。その理由は、国立競技場や広いリハーサル会場を駆け巡ることができる体力があること、パフォーマーやダンサーと臨機応変かつ自然に関われること、そして長く後世につないでもらいたかったからです。お金では買えない価値ある貴重な体験をしたことで、その後3人が手話通訳士として合格し、活動しています。こうして次世代を育てていくことも大事なことだと改めて感じましたね。

 昨年7月、東京体育館で開催された車いすラグビーの大会「2023 ワールド 車いすラグビー アジア・オセアニアチャンピオンシップ」では、聞こえない方に向けて初めて2階スタンド席に約30席分の手話通訳優先席が設けられました。橋本さんはその手話通訳を担当され、参加者にとても好評だったと聞いています。どのような工夫をされたのでしょうか?

 この大会は観客がアナウンサーの実況と現役選手らの解説を聞きながら観戦できるスタイルでしたが、そのすべてを僕が手話通訳をすると、参加者は僕ばかり見ることになるので試合の流れが分からなくなってしまいます。ですので、今のプレーにはこういう意図があるんだよとか、ハイポインターの「イケ・イケコンビ(池透伸(いけ・ゆきのぶ)選手と池崎大輔(いけざき・だいすけ)選手の連携)」の魅力など、知るとより楽しめる情報を実況に合わせて伝えるようにしました。手話通訳優先席には参加者の家族など聞こえる人もいるので、手話だけで伝えた後に、手話と音声でも同じ説明をする工夫もしましたね。

2025年には東京でデフリンピックが開催されます。手話通訳士も注目されるのではないでしょうか。

 僕は、スポーツについての経験や知識がある人がデフリンピックの手話通訳者になるといいなと思っています。例えば、デフリンピックは21競技あるわけですが、その競技ならではの手話というものがあるからです。一例を挙げると、「リレー」を表す場合、陸上は「右手で後ろからバトンを受けて、左手に渡す仕草」になりますが、水泳だと「壁にタッチして飛び込むような動き」になります。そうした専門的な手話、そして知識を併せ持っていれば選手たちもストレスなく、スムーズに試合に挑むことができます。ですから、まず手話を学んでいる人たちは積極的にデフスポーツの観戦に行ってほしいと思います。

 僕は日本財団ボランティアセンター主催のぼ活!セミナー「教えて! いちろう先生 はじめての手話」のシリーズ講師を務めています。教え子でもあるデフ陸上の山田真樹(やまだ・まき)選手ら聞こえない講師とともに、オンラインでデフリンピックや聞こえない人の日常などをテーマに手話を学ぶもので、さきほど言った「リレー」の手話の違いも受講者は分かる内容になっています。そういう学ぶ機会の提供を大切にしていきたいですね。

手話のオンライン講座の配信の様子。
この日は、デフリンピックの陸上の金メダリストである山田真樹選手(左)と進行した

今後、橋本さんが取り組みたいことは何ですか?

 僕自身はスポーツをすることは苦手だけど、プライベートで海外まで試合の応援に行くほどスポーツ観戦が大好きです。パラスポーツ界にも仲間がたくさんいて、アスリートの競技に向かう姿勢や考え方にいつも力をもらっています。そんなパラスポーツの魅力を、僕は聞こえない仲間にもっと知ってもらいたいし、パラの選手にも聞こえない世界のことを知ってもらいたいと常々思っていて、“パラ”と“デフ”をつなげる交流会を開きたいと考えています。上肢障害などで機能的に手話ができない人や、見えなくて手話を覚えることに障害があったり、音声を使わない聞こえない人もいて、その縁を「言葉をつなぐ専門家」である手話通訳者が結び合わせていくことができたらいいなあと思っています。僕は、いわゆる障害がある人たちも含めて、さまざまな人たちが一緒に生きていく時代を作っていきたいし、その経験をこれからの教育や社会に還元したいと思っています。

(取材・文/MA SPORTS、撮影/植原義晴)